リコネクション・ルームによく来てくださるクライアントさんや、ブログをよく読んでくださる方、そしてお友達には有名ですが、わたしはお料理が好きではありません。
なので、忙しいという言い訳のもと、料理を一切しなくなって数年。
あるとき、思い立って何かを焼こうと思ったら、フライパンがなかったことに気がつく始末。
そんな私ですが、この1ヶ月、ごはん作ってます。
(去年のマイご飯ブームはたぶん一週間で終った)。
簡単だからと言われ、もやしいためを作ったら、ものすごく味がなくて、びっくりしたら、
ダシを入れろとみんながアドバイスをくれたり、わかりやすい日本料理の本をくださったり、みなさんに助けてもらってます。
いろいろチャレンジして、そした毎回いろいろ失敗しています。
ミネストローネなんて外で食べる食べ物だと思ってたから、ひよこちゃん豆のミネストローネ作った時にはプチ感動。なんだけど、グリーンペッパーを入れすぎて、辛くてエスニック料理みたいな味がしました。
カレー以外のインド料理なんて作ったらかっこいいと思って作ったサブジ。
味つけが薄いめずらしいタイプのインド料理になりました。
魚の煮付けはダシをとる必要がないと知って、これは簡単と思い、魚のアラが好きなので、鯛のアラを買ってきて、フキと煮てみました。
実家でも居酒屋でもアラは大好き。魚が怖くて裁けない(あれ、漢字違う?)なんて、魚を食う資格ないぞ!なんて思っていた私。
いざ、ものすごく活きのよい鯛の顔のみを目の前にすると、超ビビッて、きれいに洗えません。きゃー、見てる見てる見てる、こっち見てる。ちゃんと洗わなかったせいか、なんとなく生臭く炊けました。フキはおいしかったけど。
子どものころお味噌汁が嫌いだったし、毎日だしをとるのが面倒くさそうだったから、
お味噌汁にまったく興味がなかったのだけど、粉末のだしで作ったら、インスタントラーメン程度の難易度。しかもおいしい。
作り始めて数週間。ふと、なんで、こんなことになっちゃったんだろう?と、頭の中に?マークが飛び交います。特に楽しいわけでもないし、下手だから、正直たいしておいしくないような気がします。食べ物自体がありがたいし、波動的には自分で作ると自分にあった波動になるから、そうゆう感覚では大変おいしいけど。。。。一般の味としては、どうかと思う感じ。なんだか、味オンチになりそうで、怖い(笑)。
しかし、なんで、急にこんなことしてるのかなぁ・・・
「テーブルをきれいにするだけで幸運がやってくる!―心と部屋を浄化するいちばん簡単な方法」
これかも!
本の整理をしにブックオフに行ったときに、もらったチケットで買った本。
片付けが苦手な人の最後の砦のような題名。しかもすごく薄い。
うちの自宅のほう、どう考えても、家のサイズと内容量がマッチングしていません。
すぐに散らかってしまいます。
内容は、中心物であるテーブルの上だけには「何も置くな」ってことなの。
とにかく、テーブルの上のスペースを空けるのが優先だから、テーブルの上にあったものを、どこかにただ移動するだけでOKなのよ。
本の中の体験談には、テーブルをきれいにするだけで、
夫婦関係や家族関係が改善されたとか、宝くじにあたった(!?)などという
体験談が紹介されています。
スペースがないから、片付けが難しい、と思っていたけど、どこでもいいから移動するだけでいいんだったら、さすがにできます。
とりあえず、やってみました。
軽く気分すっきりです。(その向こう側に控える机の上を見なければ。。。)
そうして、1、2週間後に思い立って、料理を始めたような気がする。
たぶん、このせいだよ。これ。
料理を作ることが幸運かどうかって聞かれると、困るけど….
地道に増え続けていた私の脂身ですが、増加傾向にストップがかかりました。
おめでとう、自分(笑)!
そして、もう一つ。
台所をたくさん使ったら、たくさん汚れたり、ちらかって掃除が大変と思ってたんだけど、使う回数が増えるほど、なぜか、整理されていきます。
なるほど。。。
意識の光を当てないところは、汚れていきますよね。
潜在意識も、だからクリーニングするわけだし。
最近、セッションや、セミナーでもよくお話するんですが、自分でもあらためて身をもって感じたことがあります。
「やってみないとわからない。」ということ。
やりかたがわかったらないからできない、怖くてできない、と、一歩を踏み出さない理由にしがちですよね。
でも、本当は、やってみたたらやり方がわかって、やってみたら、やったことは怖くなくなるんだと思います。
私たちの多くが、書き方、読み方、計算の仕方、文法、etc と、「何かをする方法をまず学ぶ環境」で育ってきたと思います。その中にどっぷりいたから、「やり方がわかっていないとできない」、「やりかたがわかっていないと、やってはいけない」とさえ、感じるようになってしまったのではないかし。
さらに、「やり方」の先には「正しい答え」っていうのがあったりして、何かをする前に方法を学ぶ環境が行き過ぎると、「間違うことはいけないこと」と思い、
間違うことを異常に恐れる雰囲気が生まれたように感じます。
本当に、これ、逆だと思うのよ。
やってみたら、わかるのよ。
それに、私たち、自分のやってみたいことに関して、やり方が本当に本当に何にもわからないなんて状況はほとんどないんじゃないかしら?
たとえば、海外に旅行してみたいけど、旅行なんて、一人で行ったことないしし、どうやっていいかわからない、としたら、友達とか、旅行会社とかに聞いてみればいいわけだし、ヒーリングがしたいんだったら、周りの人にさせてもらうことから始めてみることだってできるわけだし。
料理みたいな、失敗してもたいしたことないことだから、そうゆう風に簡単に言えるのでは?って思うかもしれないけれど、私は身近な生活に関してはぜんぜん意識が向かないタイプだから、『わからないけどやっていく』ことは、どっちかというと、個人的なことよりも、仕事のように人がかかわって、ある程度責任があることのほうが多かったように思います。
コンピューター翻訳の仕事も、通訳の仕事も、ヒーリングのお仕事もそう。
最初は何もわからなかったけれど、関係のあることで、今できることをとにかく初めていくうちに、だんだんと人に助けられ、情報も増え、経験値も上がり、やり方がわかってきます。
100回の練習より、5回の本番のほうが、うまくなるって、お芝居の人だか、芸人さんだかがおっしゃってました。
でも、私自身はそうした体験の仕方を家庭生活(って言うのかな?)の中に取り入れることをしてこなかったんですが、わけわからず、もやし痛め(変換ミスだけど、こっちの感じのほうがあってるフィーリング)を作ったら、いろいろ、広がっていったわけです。
そして、魚の顔にこれほどまでにビビルという、
自分がこうだと思っていた自分像がくずれていくという体験や、
もう超めんどくさいと思っていたことが、そうでもなくて、楽勝だったり、
実感をともなったビビッドな気づきがいろいろあります。
おまけに脂肪ストップ。
やってみなければ、わからない。
やってみたら、わかる。
わかると思ってもいなかったことも、わかる。まったく関係なさそうなことも、わかっちゃったり。
なんか、だまされるみたいな言葉だけど、結構、本当だと思います。
赤ちゃんのとき、うんと小さいとき、私たちたち、やり方なんて何にも知らなかったけど、
そんなに今ほど、ビビッてなかったですよね。
それが、私たちの本来のありようなんだって思います。
そして、その感覚は、わたしたちの中に絶対にあるはずだって思います。