知恩院の前には長めの石段があるのですが、そこを上るごとに気持ちよくなってきて、私、かもしか状態になってしまいました。セドナの岩山でもカモシカ化するのですが、同じ感覚。
そして、御影堂という知恩院の中心をなすお堂に入って、しばらく静かに座らせていただきました。
座っていると、すごく静かだけど、豊かという感覚がしてきます。
瞑想をやってみたことのない方から、「瞑想するって、無になることですか」って聞かれます。
無ってこと自体、その人が何を指していっているのかで、違うけれど、たぶん、何にもない空っぽってことだと思うのですが、そうだとすれば、違う感じがします。
そもそも無って、ありえるのかしらね?
宇宙も、何にもない真空だと思われていたところ(つまり無よね)は、暗黒物質(怖い響きだけど、怖いもんじゃないよ)とか暗黒エネルギーで満ちているそうだしね。
こればっかりは体験してみなきゃわからないし、体験そして理解の深さによって、感覚も解釈も違うけれど、空っぽというよりも、純粋な可能性に満ちていながら静かと、私は感じています。
わたしは、ヒーリング・ファシリテーターとして癒しに役立つという視点で瞑想に取り組んでいる迷走者なので、上級の瞑想者のような体験も理解もないし、自分のちっぽけな体験の範囲でしかお話できませんが….
知恩院では、さまざまな歴史があり、ドラマがあり、そうしたものがそこで起こってきたけれど、本質の静かさが充満している空間みたいな感覚がありました。
ここで、何百年の間にいろいろな個人がいろいろな体験をしていたという感覚と同時に、それを貫く静かさがあるみたいな….
そして、その日も、実は、御影堂はたいして静かな日ではありませんでした。
中で業者さんやお坊さんがお葬式の準備をしていて、大量の菊の花を供えたり、
そうとうバタバタしていたの。
お花の数もすごかったから、
あとで聞いたら、知恩院のトップの方がなくなって、そのお通夜の準備だったそうです。
なので、かなりの人の動きがあって、バタバタしているんだけど、でも、やっぱり静かなの。
お焼香をして、その後、別の小さい建物となっている根本聖地にも行きました。
そこは拝殿といいます。ここで、向かい側にある御廟(法然上人のお骨があるところ)をお参りします。御廟には入ることはできないの。
拝殿には、たくさんの木魚がおいてあり、そこで、全国からきたお坊さんがお経をあげたり、法然上人の命日の25日には毎月、念仏会が開催されているそうです。
拝殿
御廟
ここは私たち以外、人はいませんでした。
観光地京都にいることすら忘れてしまいます。
もちろん静かなのですが、それよりも、なんだか、とてもさわやかで、不思議と楽しい感覚のある空間でした。
あんまり大量の木魚がおいてあるもんだから、誘惑にまけて、誘惑にまけるのにはふさわしくない根本聖地なんだけど、それでも負けちゃって、ポクポクと木魚をたたいてしまいました。
ガタガタガタガタ
「えっ?」
向かいの御廟の扉ががたがたと大きな音をたてて揺れています。
「今の何?」
「えーと、その、風?」
「扉が全部閉まっているし、中から揺れたようにみえたし、そもそも風ふいてないけど」
「えーと、その、中にお坊さんがいて、うるさいって言いたかったんじゃないの?」
「アパートの隣の住人でもないのに、うるさいって言うときに、扉をがたがたさせるか?」
「えーと、その、じゃ霊魂?」何の意味で霊魂っていってるかわからんけど・・・・
「もう一回たたいてみようか?」
ポクポクポクポク
ガタガタガタガタ
やっぱり、中から扉がガタガタ揺れています。
「もう、閉館時間だし、帰ろうか?」
「そうだね」
顕在意識=思考っていうのは都合がいいもので、本当に理解できないことが起こったら、
それに関して、無視するってことができるんですね。
あれはなんだったか、話すのも、考えるのもやめました。
思考って、ぜんぶ過去の記憶&情報だから、その自分がこれまで集めたデータに一致しないことが起きたとき、それを生き生きと体験して、新しい世界に飛び込んでいくこともできれば、無視して、なかったことにして、過去の繰り返しの日常の思考に戻ることもできるんでしょうね。
この世は無常で、すべてが変化の中にあるから、ものすごく気づきを繊細に持ったり、思考から離れて現象を見ていると、すべてのものが本当は常に新しいものだって感じられるはず。一秒前に見た爪より、今の爪、本当はちょっぴり伸びているはず。
何かふとしたきっかけで、思考から解放された瞬間、いつもの日常で見る光景が突然新鮮で美しく感じられた瞬間とかって、みんな経験あるんじゃないかな?
そんなピュアな意識に、少しでも多くアクセスできるようになりたいものですね。
でも、私たち、この件については、やっぱり、過去のデータに合わないということで、切捨て、そっとしておいてます(笑)。
知恩院は、静けさの中にわくわく感の感じられる不思議な場所でした。私がそういう意識状態にあったから、外の世界(知恩院)をそう感じたのでしょうね。
知恩院は法然上人を祖師と仰ぐ浄土宗の総本山で、
今では渋い伝統的な仏教のお寺です。
「『南無阿弥陀仏』」と唱えればみな平等に救われる・・・。」という法然上人が説いていた教えは、当時としては、かなりラディカルな教えで、
貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられたんだけど、一方で旧来の仏教からそうとうな弾圧があったそうですよ。
もしかして、そんな教えの波動を感じられたとしたら、ちょっと嬉しい!