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ピザ食べたい

昨日はhttp://moo-jp.crystalgarden.shop-pro.jp/?eid=110567クリスタル・ガーデンで開催しているセミナー『Return To Your Heart』第三回でした。
今回のテーマは「ヒーリング」。

ヒーリングっていったいどうゆことなのか、ディスカッションしたり、みなさなんのヒーリング体験をシェアしたり。

ヒーリングと、日本語のカタカナで書くと、一見、何かそうゆう分野があるように見えますよね。私の業界でも、ヒーリング・メニューとか、って言ったりするから、何かそうしたものがあるってイメージができちゃうけど、
ヒーリング(healing)って言葉の意味は…
1健康あるいは健全な状態に戻す。
2. 正しい状態にする
3. (人を)スピリチャルな視点での完全性に戻す。

だから、そうしたことが含まれれば、なんだってヒーリングって呼べるわけです。

そうした視点でいろいろシェアしときにでた話題が、赤ちゃんを見ると、もう無条件でこちらも微笑んでしまったり、心がふんわりしたり、あったかくなったりって体験。
なぜなんだろう?
きっと、赤ちゃんはいつでもハート100%オープンなんでしょうねってことを話していたのですが、赤ちゃんもオープンだけれど、赤ちゃんに対しては、私たちも無防備になるからお互いハートが開いているから、癒される瞬間を味わえるのじゃないかな。

そう、ヒーリングでは、ヒーラーの役目はお手伝いすること(あるいは証人になること)であって、癒されるその本人こそが, ヒーラーだってことはよく言われますよね。
赤ちゃんの顔を見て、微笑むのは、微笑む私のハートも開いているから。

このとき、おっさんの一言で妙に元気が出たりすることもあるっていう話も出たのですが、
きっと、先生でもなく、マスターでもなく、おじ様でもなく、おっさんだから、こちらの気も油断して素の自分=オープンハートになるのかな。

なんて話をしたその日に、あるスピリチャル・リーダーからからこんなメッセージ・メールを受け取りました。

『真のヒーラーとは病気を治すことではなく、その人が完全に健康な姿だけを見られる人だ』
赤ちゃんも、おっさん(って誰なんだ?)も、自分自身が素でいるのに加え、相手が今ある状態を、その人の100%だとしてただそのまま受けとめているんでしょうね。

あたしね、ちょっぴり反省しちゃった。

ヒーリングの仕事をしていると、精神世界の裏話、結構、知ってます。
ちょっとや、そっとのことでは、驚きません。というか、精神世界が、他の業界と違うわけではないということだけなのだけど。
でも、その中にいると、いつのまにかすごい厳しい目というとちょっといいかっこしいのいいかただけど、すっごい批判的に他の同業者を見ちゃってる自分に気が付いたりします。あー、なんか、波動を感じないなーとか、愛を感じないなーとか、言っていることと生き方って一致しているのなぁとか…超もちろん、自分の波動に合うものを、自分のハートが求めるものを選び取る目をもつことは、とっても大切。他の人が良いというからって、自分ははてなマークなものに触れる必要なんて、別にないですよね。でもね、たぶん、慎重になるがゆえにではあるけれど、わたし必要以上に身構えているところあるなーと思ったの。この人のエネルギー本当に大丈夫なの、って調べる感じになっちゃってるかもって。でも、最初から調べる感じでいると、もうはじめからハートのシャッター閉め気味だから、ほんとは、微笑めるような、心はあったかくなるような波動に共鳴できたかもしれないのに、その余地を自分でシャットアウトしてるんだよね。

こんなことを思い出しました。セラピー研究所時代。毎回、自分の潜在意識を掘り下げてて、苦しかった時代。もう、私は、超扱いにくい生徒で、素直じゃなくて、セラピストに反発ばかりしていました。あー、恥ずかしい。ある日も、自分の内面を鏡のように見せられて、ものすごい嫌な気分になったんです。しかも、そのフォローがこのセラピストなっていないというか、「なんて、人に対する扱いが冷たいんだ。私はこんなに傷ついているのに。こんなにぐりぐり人の内面に切り込んでいて、厳しすぎる(イラっ)」みたいに感じた日があったの。でも、数ヶ月後で、そのときのセッションの録音を聞きなおしたら、あれー、そんなわけない。おかしいな….あれれれれ。
録音から聞こえてくるセラピストさんの声は、ものすごく穏やで、何もプッシュしていなくて、暖かさ、やさしさのこもった感じで私に話しかけてくれていました。このテープを聞きなおしたときは、本当に驚きましたよ。

昨日、このときの驚きを思い出しました。

豊かさがほしい、癒されたい、って、みんな言うけれど、何かをオーダーしたあとに、ピンポーンって音が聞こえたら、受け取るように玄関の鍵を開けるのは、自分の仕事。
ピザを注文して、ピンポーンて音が鳴ったら、玄関の鍵をあけて、扉を開かないと、ピザは食べられません。

どんなに苦手な相手でも、何かしら、共鳴できる、共感できるものはあるはず。
神聖幾何学のAYAからも学びました。少なくとも私たちは調和のφ比率をみんなたくさん共有しています。どんな人からでも、何かは学べるっていうし、どんな人とでも何かは共感できるのかも。本当は、自分の見ている世界は、全部自分だっていいますからねぇ。

あたし、きっと、もっと受け取れる余地があるんだ、って思ったら、なんか嬉しくなってきたわん。

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2010年05月15日 21:31に投稿されたエントリーのページです。

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